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2004年6月29日
「完成写真」
BBSのほうには数名の方からの激励メールが届いておりましたが、これは6月12日(土)と13日(日)に東京浜松町で開催された「東京インターナショナルミニチュアショウ」に参加した拙作をご覧になってのことでした。こちらへの参加は直前に決まりましたもので、あらかじめ予告できなかったことをお詫びいたします。(そして、もう終わってしまいました。)
上記ショーは、トム・ビショップ(米国ミニチュア界のドン)という方が世界各国で定期的に開催している国際ミニチュアショーの一環として開催されたものです。日本では毎年6月ごろの開催が恒例となっていて、今年で6回目でした。
ご興味のある人は下のビショップ氏のサイトをご覧になってください。
http://www.bishopshow.com/
ショー・スケジュールの項目にはニューヨークやロンドン、マドリッドといった開催都市名が並んでいます。また彼のリンクリストには、Brook Tucker Original やShaker Works Westなど、かなり有名な方々のサイトが含まれております。そしてショーレポートの項目には過去彼のショー会場で展示されたミニチュア作品あれこれが掲載されているなど、飽きません。
それと伊東屋ですが、先日作品を納入したとたんに「明日から展示します」と言われてしまい、こちらも予告が間に合わないうちにすでに展示が終了してしまいました。
お詫び申し上げます。
このあと作品は、伊東屋さんが開催する数箇所のパーティー会場で展示されるとのことですが、多分一般の方々はご覧になれないと思います。ま、そういったわけで、当分は見ることが出来ないのですが、そのうち当サイトにたくさんの写真を掲載する予定(時期は未定)ですので、そちらのほうで後日ゆっくりとご覧になってください。とりあえず本日は、完成写真のうちの一枚だけを下にお見せします。

撮影・伊藤誠一
2004年6月29日
2004年5月31日
「ミッションと体重の関係」
最近めっきり太ってしまい、ただいま非常にこまっている。
私の身長は178センチだが、先週ハカリに乗るととうとう「84kg」になっていた。大昔は54キロでガリガリだったが、当時もいまとおんなじ身長だった。それが30代では60キロ台になり、その後40代の後半から現在に至るまでは、ずっと70キロ台前半の数字をキープしていた。そして80キロに近づきそうになると多少はダイエットして73キロ程度にまで落とすというのが、昨今のペースだった。やり方は、朝昼の食事をへらす(あるいは食べない)という単純なもので、続けているとそうは太らない。昔からだいたいこの方法で自己水準をキープしていたのだが、以前ならば、これでなんら問題はなかった。ところがここ数年、腹がへるとパタッとパワーが落ちるという現象が顕著に現れるようになり、重要な仕事があるときだけは、できるだけ食べざる得なくなったのだ。だから伊東屋ミッションが始まった昨年の暮れ以降、食事制限をいったん解除し「腹がへったらすぐに食べる」という特別対応で、このミッションに望んでいた。そして、終わったら、ただデブだけが残った、というわけだ。
太るといっても私の場合腹が出っ張るだけである。腹が出ると脊椎を圧迫するので、もともと腰痛もちの私は、痛くて背骨がまっすぐに伸びなくなる。と同時に歩行が極端におっくうになってくるのだ。最寄り駅までは7〜8分だが、たったそれだけを歩くのにも腰と足がしびれ、途中で一回休まないと辿り着けないというありさまが昨今の状況である。しょうがないので、ここ数日必死に空腹に耐えてダイエットに励んだおかげで3キロ減り、なんとか81キロにしたが、するとやっと少しは歩けるようになってきた。まだまだあと7〜8キロは、緊急にへらさねばならぬのだが‥‥。
*伊東屋が消えてかわりにデブ残る
*駅までの道のり遠しあえぐ息
*ラーメンとビール恋しや初夏の午後

スマートだったころ
1970年代
2004年5月31日
2004年5月14日
「プラウド」誌のこと
お陰さまでメイキング伊東屋のミッションは4月の20日ごろ、ほぼ終了することができた。しかしまだまだ未完成だった3月中旬のこと、「プラウド」という雑誌の編集グループ御一行さま計6名が、ゾロゾロッと私の作業場にお見えになった。そしておそらく3時間ぐらいはいらっしゃったような気がする。
取材のためである。
プラウド誌とは、野村不動産株式会社が二ヶ月に一回発行している雑誌だそうだ。紙質、デザイン、印刷ともに目の覚めるようなクオリティーで作られている。さすが天下の野村不動産である。このたびその5月号が発行され、先日わたしの手元にも一冊届いた。うち計6ページを私の紹介にさき、拙作の写真も、大小あわせて14枚も使ってくださるなど、どこもかしこも申し分のない記事に仕上がっていた。
―――野村不動産(株)とプラウド誌編集部の皆さまに、心より御礼を申し上げます。
ただ雑誌は一般の書店では販売されていないとのことなので、本日は「プラウド」誌2004年5月号から、私に関する記事の全文を下に掲載することにする。
以下、掲載文。
「住まい」のインタビュー/アーチスト編 01
Interview with HAGA Ichiyoh
芳賀一洋/街と気配の標本箱
[立体絵画作家]
不思議な「立体画家」の作家・芳賀一洋さんのアトリエを訪問しました。
芳賀さんは異国の風景や古い店などに取材した多数のミクロコスモスを生み出していますが、それはノスタルジーだけで語りつくせる作品ではありません。
5ミリにも満たない木製や金属製の小物の類もほとんどが精巧に手作りされておりそこには凝縮された美意識やある種の執念さえ感じさせます。ある造形作家は芳賀さんの作品を「標本箱」と評しました。
それは単に家や街角の標本箱であるばかりでなく気配や時間、そして人間の想像力の標本箱なのかもしれません。
矢島幸紀[写真]
photographs by YAJIMA Yukinori
作品をなんと呼ぶのが適当なのか、話はそこから始まった。ミニチュア、ドールハウス、模型、ミクロコスモス、立体造形‥‥どれもしっくりこない。彼なりに立体絵画という名称に落ち着いたが、これもまだ改良の余地があるらしい。
最初の作品をつくった経緯もとても興味深い。1990年代の半ばごろ、経営していたブティックの経営が思わしくなく、7つあった店舗はふたつになり、誰もお客がこない中、夏に従業員を休ませて自分ひとりで店番をしていたときのことだったという。
「ふと、そばにあったカッターナイフを手にとり、店にたくさんあった紙の値札を切って小屋を作ったのが始まりです。店を空けたままどこにも行けないので、柱にはマッチの棒、窓ガラスにはコンビに弁当のふた、屋根はラッピング用のシールを貼って作りました。それがなかなかいい作品に仕上がったんです(笑)。1日で完成したので自分でもびっくりして、次の日には倉庫、次の日にはトイレと、1週間の間に5個ぐらい作品ができてしまった。その後初めて模型屋へ行き、まともな材料を買って、ある程度本気で作り始めることになりました」
若いころ彼には一時画家を目指した時期があったというから、まったく絵心がなかったわけではない。しかしほかの少年たちと同様、紙飛行機を作ったことがある程度で、模型制作に関しては経験も興味もなかったという彼にとって、その夏の出来事は不思議な転機をもたらした。彼は店を閉め、自分の天職へと歩みだしたのだ。そして、彼の作品の価値を認めた友人の後押しもあって、それから1年も経たないうちに渋谷パルコのギャラリーで個展を開催するまでになっていった。
しかし最初のときと同様に、どうして作品ができるのか自分でも説明できない部分があるという。
「どういうわけか自然にできちゃうんです。これが不思議ですね(笑)。朝目が覚めると、やることがぼーっと頭に浮かんでくる。そのまま作業場に来てそのとおり1日中続けて、気がついたら夜になっているので寝る。それでまた次の朝起きるとまた何かが浮かぶ‥‥。ですが、その状態になるまではなかなか作品に取り掛かれません。悩んでしまい、気持ちが定まらず、時には蕁麻疹(じんましん)が出てしまうこともあります。やろうと思っても始める勇気が出てこない状態が続きます。ところがある程度作業が進むと、ふいに霧が晴れたように自然にやりかたがわかってくるようになるんです。あとは、気がついたらできていたという感じでしょうか」
全体の寸法など大枠を定めた設計図はあるが、細かな図面は存在しない。とくに入念なスケッチをとるわけでもなく、むしろ部分部分のディテールにそのつど徹底的にこだわりながら、それが全体の整合性を失うことなく、最後には絶妙なバランスで総合されたひとつの作品世界ができあがるのだ。
部品についてはドールハウス関連の小物類が使えなくはない。しかし実際には、カタログを探したり発注したりするのに手間がかかり、送られてくる部品の精度が彼の基準に達しないことも多く、結局ほとんどのパーツは、木製のものも金属のものも手作りに頼るのが現状だという。
実は、彼の作品は全部解体できるようになっており、完成した時点で、一回パーツに分解され、ホコリを払い、細部を手直ししながら再度組み立てられる。もちろんそれだけでも1日がかりの仕事である。
取材時、彼が手がけていた作品は、100年前に銀座に建てられていた伊東屋の店舗を1枚の古写真から復元するという仕事だった。けっして資料が豊富にあるわけではない。古びた写真はあいまいな部分も多く、もちろん背後に隠れた部分は想像するしかない。しかしそれは単純な想像力というのとも少し違うらしい。むしろ推理に近いものだ。
「たとえば、向かって左手のケースの中には万年筆を並べています。この万年筆はペリカン製品を想定しました。この時代にはこのほかにもモンブランやパーカーも輸入されていましたが、ペリカンのロゴがとてもレトロで雰囲気にあったのでそれを選びました。しかしほんとうは当時の万年筆の形そのものではないんです。忠実に明治の万年筆を再現しても万年筆には見えないので、見てわかるよなものを作りました。
ケースの中身については実はほとんど手がかりがないのですが、伊東屋さんといえばまず万年筆と思い、手前に万年筆を置き、それに付随してインクの壷を置きました。資料の写真でトルソーが見えているのでトルソーを揃え、そうするとその隣にはやはり絵の具かという具合です‥‥‥」
さらには、作品としてここに照明を入れたいといった創意も含め、そこには彼独自の様式感覚と時代感覚が凝縮されていく。それは即物的な意味での復元ではなく、いわばその時代の記憶や気配の復元なのである。
毎日の作業を終えると、アトリエで作品を眺めながらお酒を飲むのだという。ようやく彼が物作りの魔力から解放されるわずかな安息のひとときに違いない。もっとも作品を見ているうちに「あっと思いついたりする」のは必至なのだか‥‥‥。(編集部)
―――以上が今回の記事の内容だった。
インタビューをお受けする場合
「どういうきっかけで始めたのですか?」
インタビュアーは、必ず冒頭でそれを尋ねる。だから毎回「コンビニ弁当のフタを使い、マッチの棒で‥‥」というはなしになってしまい、いつもあんまりかわり映えがしないのだが‥‥。ま、しばらくは、しょうがないでしょう。

野村不動産(株)発行の「プラウド」誌
2004年5月号より
2004年5月14日
2004年5月7日
「永六輔さん、ありがとう!」
吉祥寺東急百貨店での拙展は先日無事終了いたしました。期間中ご来場いただいた皆様や東急のマネジャー諸氏、搬入搬出を手伝ってくださった生徒諸氏など、多くの方々に対して厚く御礼を申し上げます。
二日目(30日)の朝一番で、マルチタレントの永六輔さんがお見えになり
「わたしはあなたの追っかけですから‥」
と、おっしゃったのには驚いた。どうも遠方からわざわざご足労くださったようである。
その翌朝、永さんはTBSのラジオで今般の作品展のことを宣伝してくださったことを知り、またまたビックリ! 来る客来る客が「永さんがラジオで絶対に行くべしと言っていたので飛んで来ました」と、口々に連発したことによって、そのことを知った。
――感謝感激!雨あられ!
連絡先がわからないので、永六輔さんにもこの場をかりて心より御礼を申し上げます。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

会場に置いてあった芳賀の机
撮影:サト・ノリユキ(SATO FOTO)
2004年5月7日
2004年4月20日
「吉祥寺展のこと」
以前より当サイト「エキシビジョン」の項目に掲示してありましたが、4月29日より東急百貨店吉祥寺店にて芳賀一洋作品展が開催されます。
―――詳細は以下です。
タイトル:芳賀一洋「箱の中のパリと昭和の残像」展
会場: 東急百貨店 吉祥寺店 2階テラス北側特設会場
住所: 東京都武蔵野市吉祥寺本町2-3-1
電話: 0422-21-5111(代表)
会期: 2004年4月29日(木)〜5月5日(水)
時間: 午前10時〜午後8時
(入場無料)
本物と見まちがえるほど精巧に作られたミニチュアサイズのパリ街角や昭和の日本。見る者がガリバーになったような不思議な空間をつくりあげました。今回は作者・芳賀一洋氏による制作実演を含め氏の主要な作品のすべてを一同に展示し、ご希望のお客様には販売もできる会場になっております。
以上が案内状の文面だ。
文面にもあるように私はだいたい会場にいて、常に机の前で何かを作っているという趣向だ。そのほうが疲れないからである。また今回の会場は非常に広く、しかもキレイなので、かなり良い展示になるのでは‥と、期待している。
―――是非ご来場ください。

上は2003年10月に開催された
有楽町交通会館における展示の様子
2004年4月20日
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